2014/06/02

外来種について考えてみる その2 教育について




外来種、とくにブラックバスの駆除において、しばしば教育の問題が浮上してきます。

自分達の理論を強化するために子どもを利用しているように見えなくもないのですが、教育は重要なので考えてみることにします。

A駆除派、B反駆除派それぞれの言い分は以下のようなところですかね。

A「ブラックバスがどれだけ生態系を壊しているか子どもたちに教える必要がある」

B「子供の目の前でバスを殺しておいて、命の尊さを教えられるのか」

ここで対象としている「子ども」というのは、モラトリアム期の精神的に子どもである人ではなく、普通の小学生をイメージしていると思います。




大学で教員免許がとれるコースを取った人はわかると思いますが、教育には教育目標・到達目標が必ずあります。

Aは、生態系と言ってるのだから、自然科学について理解を深めることが目標なんだと思います。
たぶん。

Bは、命の尊さを知る、なので、命を大切にする感性を持つ、といったところでしょうか。
対象が小学生なので、生命倫理まではいかないと思います。

それぞれ到達目標は不明ですが、教えようとしている内容がぜんぜん違うので、議論が噛み合うはずがありません。

それでも話を進めていきます。


A駆除派の問題点は、前回述べたように、生態系のベストな形が誰も分からないにもかかわらず、変化することが悪いことであると断定している点です。
生態系が変化した結果人類にとってどういう不都合が起こるのかをなんら述べることなく、「変化するから駆除しなさい」と教えています。
自然科学の理解を目標にしているのに非科学的な行為になっています。

また、教える対象が、自然科学を理解させるのに相応しくない年齢であることも気になります。
生態系の理解は大人でも難しいのに、グラフも読めない小学校低学年の子どもにバスの駆除をしながら生態系について解くイベントがあったりします。

「生態系」などという言葉を出さずに、「科学なんて知らん、日本は美しいのだ」と言われればまだ納得できるところもあるのですが、 僕は理屈っぽいので、小学校低学年に生態系を教える行為が無駄すぎて子どもが可哀想になります。



B反駆除派の言い分については、 『状況に合わせて個体数を調整する』ことが当然のように行われている現実を考えると、もはや教育的配慮はどうでもいいことに思えてしまいます。

しかし、小さな子ども(2歳)を持つ親としては、どちらかと言えばBの言い分はある程度正しいと思っています。
「正しい」というのは、要するに人類という種の保存・繁栄、言い換えれば健康で文化的な生活を営むのに役立つだろうということです。




それではまた事例を出しましょう。

豪州でコアラが守られすぎてユーカリの減少が問題になり、コアラを調整するかどうか、誰かが判断しなければいけない、という例を考えてみます。

このとき、コアラを駆除することに、「全く何の感情もわかない人」と、「畏怖の念や可哀想といった感情を持ちながら調整する人」では、どちらが良いのでしょうか。

おそらく大抵の大人は、後者の「感情を持つ」ことが良いと答えるでしょう。

しかし調整が必要なのは明らかです。
豪州はアウトバックは乾燥地帯で、ユーカリがなくなれば砂漠となり、もともと各地で起こる水不足の問題がさらに深刻化することになります。
もはやイノシシが里に降りるというレベルではありません。
この明らかな状況においても、「感情」は必要なのでしょうか。

たぶん必要です。
難しいところですが。


僕は前回、健康で文化的な生活に影響がない絶滅なら無視していいし、問題があるなら解決しなければいけないと書きましたが、問題があるかないか、未来がそう簡単にわかるわけありません。

そのとき、人間は判断を下そうとする自分達にブレーキをかけ、ブレーキを書けるだけでは解決しないので、勇気を持って判断したり、という熟考が必要になります。

このブレーキにあたるのが、「感性」であると考えますし、おそらく多くの人は同じ考えなのではないでしょうか。

この点でいえば、Aはまるでブレーキ機能を持っていません。
外来種は悪、在来種は善という科学的ではない価値観が判断基準になっているからです。

人類の保存・繁栄に役立つ教育とはいえません。

しかしBに関しても、単純な「生命皆平等」が通用するのはホントの低年齢児であり、ベイトリールでキャストできるくらいの子どもであれば、もう少し深い話をしてもいいと思っています。

そういう点から、冒頭で述べたように、AもBも自分達の理論を強化するために子どもを利用しているように見えてしまうのです。



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