2014/06/27

敗戦から


ギリシャ戦が終わった時点で、客観的に見て予選突破は万が一だから、ある程度覚悟していたけれど、やはりショックだったし、悔しくてサッカー関連のニュースや記事を見るのが辛かった。

長友は顔を抑えて泣いていた。
一般の記者はその姿にもらい泣きするだろうけれど、サッカーをずっと追ってきたサッカー専門の記者は、長友が思い返しているであろう4年間にもらい泣きしたと思う。
じわじわとにじみ出てくるような涙だった。


さて、1.5軍のコロンビア相手に1対4で敗れたことに対して、これが日本の実力だったんだ、と一言吐き捨てて済ませるるもりはない。
それ以上のいろいろなことがわかっているのに、吐き捨てて終わるのは逆にストレスだ。


今大会は厚い守備からカウンターを決める場面が多く、そういうチームが勝ち残っている。
蒸し暑さや打倒スペインという要素があるだろうし、あるいは南米という地も要素だろう。
ブラジルに対して伝統的にカウンターサッカーをしている南米チームに対して、サポーターの後押しが強いからだ。

スペインは、パスサッカーが最強だったのか、シャビ・イニエスタが最強だったのか、これから検証されることだろうと思う。
仮に後者であれば、我々は4年前に軌跡のサッカーを見ていたことになる。

カテナチオから攻撃に力を入れはじめたイタリアは予選落ちした。
それと並べるのも気が引けるが、前回ベスト16の日本も、攻撃的なパスサッカーのスタイルで1度も勝てずに終わった。

本田は4年間を全否定する必要もあると言った。
それは現役中に優勝を狙うプレイヤーだから当然のことだが、死ぬまでに優勝が見たいという立場からすれば、評価、継承すべきこともたくさんある。



思い返せば4年前、考えて走るオシムさんのサッカーを岡田さんが引き継いだが、結局最終的に選んだのは守備からのサッカーだった。

それしか選択肢がなかったのだ。

オシム~岡田ジャパンが目指した歩みを知っているものからすれば、その戦術は屈辱だった。
誰がどう見ても弱者の戦術であり、映画がんばれベアーズすら思い出してしまった。
もちろん勝ち進んでいく代表は熱く、夢中で応援したのだが、試合中にもかかわらず悔しかった。
敗れたパラグアイ戦などは、自分からは全然得点をとりにいけないために、後半は完全にPK戦狙いになっていた。
岡田ジャパンが最終的にたどり着いたところは、ゴールに向かわないチームだったのだ。
悔しくないわけがない。

対して、今回は、守備的な戦術『も』あったんじゃないか、といえるチームになった。
同様の戦術をとらなかったことに批判もあるが、長い目で見れば必ずプラスになるはずだと思う。
今、少年サッカーでは、昔の日本のようにゴール前でパスをすることはない。
本田の影響、ザックジャパンの影響は大きい。
走り勝つだけの戦術もとらない。
考えることを伝える。
変えられない体格の差を、どうやって埋めるかを考えている。

今回の3試合のなかで、もっとも検証しなければ行けないのは1試合目だ。
3試合目が一番ザックジャパンらしかったが、あれは玉砕覚悟のなかで、カウンターが得意なコロンビア相手にハマってしまったという試合で、日本じゃなくても多くはあのような結果になるだろうと思う。
1.5軍に4点とられて負けた、というのは、あくまでもコートジボワール戦、ギリシャ戦からの流れなのだ。
『あれが実力』というのはちょっと違う。
そこまで卑屈になる必要はない。

ただし、サッカー伝統国に比べると、あまりに戦い方のオプションが少なかった。
多くのチームが守備的、攻撃的なスタイルを組み合わせながら戦っているのに対して、日本は基本の4-2-3-1、これがすでに攻撃的なスタイルなのだが、オプションはさらに攻撃的な3-4-3で、しかも最終的に形にならずに終わった。

また、パスサッカーは俗にいう歯車が狂いやすく、とくに初戦は狂ったら元に戻すのが難しい。
初戦の前半は守備的に様子を見ながらやるというのもひとつの手だろう。
もちろん、その守備的スタイルは練習して洗練された守備的スタイルでなければいけない。

こんなことが言えるのも、あのコートジボワール戦があったからで、あの流れ、あの雰囲気は、ドーハの悲劇のように絶対忘れてはいけない。
守備的に行けというのなら、3年前から言わなければいけない。

コロンビア戦から学ぶことは、戦術よりも個の技術だ。
カウンターのオフェンス1に対して、ディフェンダー1+キーパーは一度も守れなかった。
吉田は切り返しに遅れて足にあてることが出来ず、川島はコースが大体限定されていてもボールに届かなかった。
立場が逆の時に、日本の攻撃陣は同じことができるだろうか。


長くなったので今日はこの辺で。

2014/06/15

サッカーの楽しみ方とブラジルW杯 その3

守備的なカウンターは日本人の身体機能上、ワールドカップの優勝を目指すスタイルには難しいということを前回書いた。

次によく言われることがだ、体つきの似ているメキシコやチリなどスタイルである。



メキシコもポゼッションサッカーである。

ボールを持ったら機敏性と個人技を活かし、香川のようにヒラリヒラリと回転しながらボールキープし、パスを回して、相手の守備に穴を見つける。


全員が上手い。


ザックジャパンのスタイルとの違いは、ワンタッチプレーをそれほど重視していないのか、量が少ない。
各プレイヤーのボールキープ能力はメキシコの方が上だが、チームとしての数多くの約束事を理解・暗記し、局面で状況把握しているザックジャパンは、ボールがワンタッチで繋がる。

僕は日本のほうが戦術的にはメキシコやチリよりも間違いなく上だと思っている。
第一優勝していない国の真似をする必要もない。

小柄なスペインが独自にスタイルを身につけて4年前に初優勝したように、日本もそれを見つけて『日本のサッカー』として定着していかなければいけない。



それでは日本人にあったサッカーとは何か。



オシム元監督が日本人にあった「考えて走るサッカー」を提言し、今それを受け継いでいる。

僕にはまだ明確にイメージ出来ていないが、今のところサッカー関係者はその「考えて走る」スタイルを洗練させていくことが、ワールドカップ優勝に繋がると考えている。

ザックジャパンは間違いなくそのスタイルである。
スペインやメキシコも体格は似ていて、ポゼッションサッカーも共通であるが、他国とは違うスタイルなのである。

将来日本代表を目指す少年たちも、そのような指導を受けている。
はっきり言って少年サッカーではカウンターサッカーの方が安定して成績が良い。
しかし、そのスタイル上手くなっても代表に選ばれない。

聞いた話ではスペインもそのように目先の成績よりも代表の成績に繋がる指導をしているそうだ。

一方メキシコやチリでは、各年代の上手な子を、上の年代に飛び級させて練習させる。
上の学年に揉まれるので、勝手に個人技が上手になるという育成方法だ。
そう言われてみると確かにそういうメキシコやチリはそういうサッカーをする。

同じ小柄な体格の国として、メキシコが先に優勝するか、日本が先に優勝するか、楽しみであるがそれまで僕の寿命が続くか心配でもある。

その前にギリシア戦、コロンビア戦である。


サッカーの楽しみ方とブラジルW杯 その2

コートジボワール戦の内容を受けて、ザックジャパンのスタイルに疑問を持つファンも居るかもしれない。

どういうスタイルが日本にとってベストなのか。

こういうことを考えるのも楽しみ方である。




ザックジャパンのスタイルは、スペインのように常に主導権を握ることはできないが、守備も攻撃もひらめきに頼らず、規律のなかでボールを奪い、規律の中でワンタッチでボールを運び、有利な状況でエリア内に人数を入れてゴールを奪う攻撃的なサッカーである。

これがハマった時、日本は同日行われたイングランドやイタリアよりも点をとることだけに関しては上と言ってもいい。

サッカー人がよく使う言い回しであるが、チンチンにボールが回り、相手は何もできずにボールを見送るだけになる。
本当にそうなのである。
自国びいきというのを差し引いても、本当に日本の攻撃力は、(ハマった時に限るが)実は世界有数なのである。




しかしコートジボワール戦ではまったく機能しなかった。

理由は前回書いたが、メンタルも含めて考えると、最初から守備的なスタイルを基本に練習するのもありだったかもしれない、という案はある。

守備からカウンターというサッカーは、ヤルことが決まっていて分かりやすい。
そのため「極度の緊張の中で状況を冷静に分析しながら勇気を持って仲間を信じて走って、パスを受けて、パスを出す」というような、精神的に高度なものをあまり要求しない。

来たら跳ね返す!である。

チェルシーのモウリーニョはこの名手で、大舞台で好成績を出してきたし、今大会でオランダもスペイン相手にこれで5点とった。

しかし、日本に合うかというと、絶対に合わない。

まず、ロッベンが居ないし、ファン・ペルシーも居ない。
(ちなみにオランダは通常3-4-3という攻撃的なスタイルで、スペイン戦に向けて5バックという守備的なスタイルを練習してきた)

チェルシーのような分厚いディフェンスも日本人の身体機能上、不可能である。

確認しておくが、日本は2050年までに優勝するのだ。
そのスタイルで優勝できるかということだ。
予選突破はできるだろうけど、ベスト8は可能だろうけど、優勝はちょっと、となるだろう。

次にメキシコやチリのような小柄な南米スタイルはどうか。

続く

サッカーの楽しみ方とブラジルW杯 その1

外来種についてのドラフトも用意してあるのだけれど、今はワールドカップ。
それどころではない。

まずはコートジボワール戦について。






ザックジャパンのサッカーはこれまで全て(都合見れないものはロングダイジェストで)見てきたが、主導権をとって攻めるパスサッカーである。

スペインのように常に主導権を握ることはできないが、守備も攻撃もひらめきに頼らず、規律のなかでボールを奪い、規律の中でワンタッチでボールを運び、有利な状況でエリア内に人数を入れてゴールを奪う。
エリア内の動きはさすがに規律通り行かないが、たくさん入ることでひらめきが形になるのである。

エリア内に何人入るかは状況によって決められ、3人いかなければいけないときもあれば、2人の時もある。
こういうことはチームの約束事としてプレイヤーもベンチも共有している。

世界でも有数の攻撃的なスタイル故に失点も多いが、果たしてワールドカップでは、、、というのが一般的な見方だったし、僕もそうだった。




怖さで足が動かなくなるということ


さて、コートジボワール戦は1-2で敗戦したが、一言で言うとこれまで4年間積み上げてきたサッカーがまったくできなかった。

不十分だったのではなく、本当に全くできなかった。


ボクシング漫画で言えば、幕之内一歩が打ち合いを避けて、距離をとってカウンターを狙うボクシングをするくらい別のスタイルになってしまった。

強い雨のせいもあるが、ワールドカップの怖さ、だと思う。

僕は去年の10月に「8年前のジーコジャパンみたいになるかも」という記事を書いた。
それは年齢やコンディショニングから足が動かなくなる、ダイナミズムの低下、という内容だったが、今日の試合を見てメンタルがフットワークに及ぼす影響について強く考えさせられた。

ザックジャパンは上述したように、規律の中で守備も攻撃も連動で行う。
簡単にいえば、連動して前に移動して、ボールを奪ったり、ボールを運んだりする。

前に移動するので、後ろにスペースが空く。

ボールを奪われてそこを疲れるのが怖いのだ。

当たり前の話だが、日本人の場合、この連動して守って連動して攻めいる方が安全である。
選手もファンも理論的には分かっている。

が、怖くて前にダッシュするのを躊躇する場面が多く見られた。

パサーは、受け手がスペースにダッシュすることを前提にパスを出そうとするが、ダッシュしてくれないので出しどころがなく、そのうちに相手に囲まれて奪われてしまう。

味方がダッシュしない、つまり弱気であるとわかると、自分がダッシュしてもパスを出してくれないと思い、自分もダッシュが出来ない。

その雰囲気がチーム全体を覆い、誰もダッシュが出来ず、後ろに引いて守る形になってしまった。

後ろに引いた日本に対し、コートジボワールはサイドや後ろからボールを放り込む。


そうなるともう肉弾戦だ。
上から落ちてくるボールに速く触った方が勝ちだ。
小柄な日本人が、アフリカンに勝てるわけがないのだ。

試合後、選手たちの様子は疲労困憊というより、やりきれなかったという様子だった。
事実、ワールドカップなのに、だれも足を釣っていないのだ。

おそらくコンディション不良という記事が出てくるだろう。
暑さに負けたと書かれるかもしれないし、作戦ミスという記事もあるかもしれない。

しかしながら、本質は、自分たちのサッカーができなかったメンタルにあると僕は思う。
コンフェデ杯のブラジル戦がそうだったし、今にして思えば8年前の屈辱のオーストラリア戦もそうだったのではないか。

コンフェデ杯では、2戦目からは立て直し、結果的に負けたとはいえ、自分たちのサッカーでイタリアに対し数えきれないほどのシュートを浴びせた。
 ブッフォンが、あんなにシュートを打たれたことは記憶に無いと言っていた。

 そういう立て直しを期待する。

2014/06/02

外来種について考えてみる その2 教育について




外来種、とくにブラックバスの駆除において、しばしば教育の問題が浮上してきます。

自分達の理論を強化するために子どもを利用しているように見えなくもないのですが、教育は重要なので考えてみることにします。

A駆除派、B反駆除派それぞれの言い分は以下のようなところですかね。

A「ブラックバスがどれだけ生態系を壊しているか子どもたちに教える必要がある」

B「子供の目の前でバスを殺しておいて、命の尊さを教えられるのか」

ここで対象としている「子ども」というのは、モラトリアム期の精神的に子どもである人ではなく、普通の小学生をイメージしていると思います。




大学で教員免許がとれるコースを取った人はわかると思いますが、教育には教育目標・到達目標が必ずあります。

Aは、生態系と言ってるのだから、自然科学について理解を深めることが目標なんだと思います。
たぶん。

Bは、命の尊さを知る、なので、命を大切にする感性を持つ、といったところでしょうか。
対象が小学生なので、生命倫理まではいかないと思います。

それぞれ到達目標は不明ですが、教えようとしている内容がぜんぜん違うので、議論が噛み合うはずがありません。

それでも話を進めていきます。


A駆除派の問題点は、前回述べたように、生態系のベストな形が誰も分からないにもかかわらず、変化することが悪いことであると断定している点です。
生態系が変化した結果人類にとってどういう不都合が起こるのかをなんら述べることなく、「変化するから駆除しなさい」と教えています。
自然科学の理解を目標にしているのに非科学的な行為になっています。

また、教える対象が、自然科学を理解させるのに相応しくない年齢であることも気になります。
生態系の理解は大人でも難しいのに、グラフも読めない小学校低学年の子どもにバスの駆除をしながら生態系について解くイベントがあったりします。

「生態系」などという言葉を出さずに、「科学なんて知らん、日本は美しいのだ」と言われればまだ納得できるところもあるのですが、 僕は理屈っぽいので、小学校低学年に生態系を教える行為が無駄すぎて子どもが可哀想になります。



B反駆除派の言い分については、 『状況に合わせて個体数を調整する』ことが当然のように行われている現実を考えると、もはや教育的配慮はどうでもいいことに思えてしまいます。

しかし、小さな子ども(2歳)を持つ親としては、どちらかと言えばBの言い分はある程度正しいと思っています。
「正しい」というのは、要するに人類という種の保存・繁栄、言い換えれば健康で文化的な生活を営むのに役立つだろうということです。




それではまた事例を出しましょう。

豪州でコアラが守られすぎてユーカリの減少が問題になり、コアラを調整するかどうか、誰かが判断しなければいけない、という例を考えてみます。

このとき、コアラを駆除することに、「全く何の感情もわかない人」と、「畏怖の念や可哀想といった感情を持ちながら調整する人」では、どちらが良いのでしょうか。

おそらく大抵の大人は、後者の「感情を持つ」ことが良いと答えるでしょう。

しかし調整が必要なのは明らかです。
豪州はアウトバックは乾燥地帯で、ユーカリがなくなれば砂漠となり、もともと各地で起こる水不足の問題がさらに深刻化することになります。
もはやイノシシが里に降りるというレベルではありません。
この明らかな状況においても、「感情」は必要なのでしょうか。

たぶん必要です。
難しいところですが。


僕は前回、健康で文化的な生活に影響がない絶滅なら無視していいし、問題があるなら解決しなければいけないと書きましたが、問題があるかないか、未来がそう簡単にわかるわけありません。

そのとき、人間は判断を下そうとする自分達にブレーキをかけ、ブレーキを書けるだけでは解決しないので、勇気を持って判断したり、という熟考が必要になります。

このブレーキにあたるのが、「感性」であると考えますし、おそらく多くの人は同じ考えなのではないでしょうか。

この点でいえば、Aはまるでブレーキ機能を持っていません。
外来種は悪、在来種は善という科学的ではない価値観が判断基準になっているからです。

人類の保存・繁栄に役立つ教育とはいえません。

しかしBに関しても、単純な「生命皆平等」が通用するのはホントの低年齢児であり、ベイトリールでキャストできるくらいの子どもであれば、もう少し深い話をしてもいいと思っています。

そういう点から、冒頭で述べたように、AもBも自分達の理論を強化するために子どもを利用しているように見えてしまうのです。